能楽の歴史と成り立ち
能楽の歴史と成り立ち
観世流の原型となったのは、南北朝時代に大和(奈良県)で活動していた猿楽芸能の一座・結崎座で、その結崎座に所属し、大夫(座の代表する役者)を勤めていた観阿弥清次が観世流の初代です。
観阿弥は、息子の世阿弥とともに京都に進出し時の室町幕府三代将軍足利義満に認められ、その庇護のもと各地に勢力を伸ばします。
都の貴族文化を吸収した観世座の能は、観阿弥、世阿弥父子の手によって芸能としてより洗練され、深みを増しました。観阿弥の後を継ぎ、二世観世大夫となった世阿弥は、夢幻能という独創的なスタイルを確立したほか、
「風姿花伝」などの画期的な芸能論を著すなど、傑出した才能を発揮しました。
江戸時代に入りますと、徳川幕府が能を式楽(幕府の儀式で奏される音楽・芸能)に定め、また様々な流派の中でも特に観世流に庇護を加えたことによって、観世流は観世父子以来の全盛時代を迎えることとなります。
この間に、いわゆる家元制度が確立し、また能の演技そのものも、公的な行事の場で演じられるに相応しい荘重なものとなり、現代演じられている能のスタイルがほぼ出来上がったと考えられています。
(観世ネット参照)
能は、鎌倉時代後期から室町時代初期に完成を見た、日本の舞台芸術の一種。江戸時代以前には猿楽の能と呼ばれていたものである。
能とは元々能芸・芸能の意をもつ語であって、猿楽以外にもこれが用いられていたが、猿楽が盛んになるとともにほとんど猿楽の能の略称となり、明治維新後禄を失ったことにより他の多くの芸能は絶え、猿楽を能楽と呼称することが一般的となった。
その起源は議論の分かれるところであり正確な事はわかっていない。現在の能は中国伝来の舞、日本古来の田楽、延年などといった様々な芸能や行事の影響を受けて成立したものであると考えられている。現在は日本における代表的な伝統芸能として遇され、国際的に高い知名度を誇る。(wikipedia参照)